市川市国府台は戦国時代、大きな合戦の舞台になった。その要地の高台に城跡が残っている。遊園地、軍用地、公園へと時代につれて変遷したため、戦国時代の遺構は多くないが、兵(つわもの)たちが攻防を繰り広げた往時の面影をしのぶことができる。
室町幕府の関東支配が揺らいでいた15世紀半ば。関東を統制する役職「鎌倉公方(くぼう)」と、その補佐役「関東管領(かんれい)」の争いが関東全域に広がった。渦中の1479(文明11)年、地域支配の要地であった国府台に関東管領の家臣、太田道灌が城を築いたとされる。
城域は現在の国府台3から里見公園、総寧寺に及ぶ。江戸川に平行して延びる丘陵上に位置し、急な崖を背にコの字型に土塁を築き敵の侵入を防ぐ自然を利用した出城だった。この地域は武蔵と下総の国境付近。市立市川歴史博物館学芸員の山岸未来さんは「武蔵国からの侵攻、松戸・船橋方面の交通を監視する『境目の城』だった」と説明する。
16世紀には小田原北条氏と県内勢力が2度にわたり激突。同公園内に土塁のほか、北条氏に敗れた里見氏にまつわる「夜泣き石」が残る。
徳川幕府が開かれると、江戸を一望できるなどの理由から廃城となり、城跡は関宿から移転した総寧寺の寺域となった。江戸時代は庶民の行楽地に、大正時代には遊園地「八景園」へと移り変わり、陸軍施設も建てられた。
現在は同公園など市民憩いの場に変貌した国府台城。戦国時代の遺構や市川が軍都だった名残が見られるだけでなく、江戸時代の人も見たであろう東京の景色が眼下に広がる。「さまざまな時代の面影を楽しめる」と山岸さんは紹介した。
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戦国時代をはじめ、過去には県内でもさまざまな勢力が盛衰を繰り広げた。現代に残された城跡は、かつてそこにあった戦いや人の営みを想像させてくれる。県誕生150周年の節目に、郷土の歴史へ思いをはせる機会として、千葉市・首都圏地域に残る古城を紹介する。
◇メモ
里見公園はJR市川駅または京成国府台駅から、「松戸駅行き」「松戸営業所行き」または「北国分行き」バスで「国府台病院」下車徒歩5分。
経済拠点として機能 米本城(八千代市)
国道16号から程近い中世の城郭跡で、江戸時代に佐倉藩の学者がまとめた「佐倉風土記」によれば、戦国時代に村上国綱(くにつな)・綱清(つなきよ)の父子が居城したと伝わる。築城時期や廃城となった経緯などに不明点が多い一方─
交通要衝、争奪合戦 関宿城(野田市)
千葉県の最北端、利根川と江戸川の水運が交わる交通の要衝にあった関宿城。江戸時代には江戸城の富士見櫓(やぐら)を模した三層の御三階櫓がそびえ、天守の機能を果たしていた。明治の河川改修などで消えた郷土の誇りの復活を願う地域住民の強い要望で─
房総戦国絵巻の舞台 生実城(千葉市中央区)
歴史の舞台に登場するのは15世紀後半。千葉市立郷土博物館の資料などによると、千葉氏の有力一族、原氏が1455年に千葉宗家を滅ぼした後、松戸・小金から生実城に本拠を移したとされる。その原氏を追い出したのが─
穀倉地帯守る拠点か 夏見城(船橋市)
崖崩れにより、城の規模を知ることは難しい。現在残る土塁は北、西、南に回る三角形状。東側は崖になっており、自然の地形を利用して外敵を防いでいたと思われる。北東側に土塁の切れ目があり、小規模な虎口─
天険の地、堀底にわな 小金城(松戸市)
松戸市北部の住宅街に、そこだけ時が止まったような静けさが漂う大谷口歴史公園。この場所にはかつて「小金領」本拠地として、東西800メートル、南北600メートルに及ぶ下総国有数の大規模城郭・小金城が威容を誇っていた。下総台地の─
「将門愛」あふれる里 大野城(市川市)
平安中期の10世紀前半、関東一円に勢力を広げ、京都政権に対し「東国の独立」を挑んだ平将門。「将門愛」にあふれたこの地には将門が勧請したとされる神社があり、同市立第五中学校の校舎が建つ台地周辺は─